moon

Diary of C

好きなこと ワインを飲むこと、踊ること、絵を描くこと

秋分を越えて

 


「真心」。

 

 「あなたに、真心はありますか?」


「それは、真心からですか?」


 そんな風に、誰かに問われたら、途端に自責の念を感じてしまいそうな言葉。

 

「真心」は本来


 通常、使う誠意、真摯さとという意味だけではなく

「生まれたての 純粋な心」という意味も持っていて


 誠実さや、誠意 というような少し緊張感を帯びる言葉ではなく


 真心とは、生まれたての赤ちゃんのような、飾り気のない

 ありのままを表す、すっと、心の曇りを晴らしてくれるような言葉。


 美味しいものを食べた時に、素直に美味しいと思う心や

 


 悲しいことがあった時に、心を痛め、悲しいと思う心や

 


 悔しい思いをしたときに、次は頑張ろうと思う心や、

 


 美しいものを見たときに美しいと思う心。

 


 自分自身を省みて、反省する心。

 


 それが 真心。

 


 江戸時代の 国学者 本居宣長は 「真心」とは

善悪、利害、イデオロギーなど、一切の固定観念に影響されることなく

物や事に触れて「動く」という心の純粋な機能を十二分に動かしてくれるものと

説いています。  

 


 「もののあはれ」という感情を救い出した本居宣長

 


 まごころ とは「心の鼓動」そのもので

人が人であるために必要不可欠な身体で言えば心臓のようなもの。

 


 地位や名誉や富も真心には勝つ事ができないと。

 


 真心とは、別に「漢心」は

表面的なレベルの意識、鋭く知的ではあっても、虚構

(人間が生きる社会において概念化された善悪や是非を論じたもの)

に満ちた心 を表すとされています。

 


 「真心」の大切さは先天的に誰もが知っている。 


 だとしても


 自分の時間や才能を投資として扱うような、能力優位主義の

愛が崩壊しかけているこの世界では、

「真心」を求めながらも 同時に「漢心」なしでは生きていけない・・・


 時に人は、その矛盾の中で道を見失うことがあるかもしれません。


 もしも、外からの情報に頼り、生きるとするならば

いつまで経っても心の琴線に触れるような生き方はできず、

真心を燃やす火を自ら消してしまうことになりかねません。


 真実は、心の奥底から湧き上がってくるもの。


 年齢や性別、人種に関わらず全ての人の根底に滔々と流れる源泉。

 

私たちは、知らず知らずのうちに源泉から目を逸らすように仕向けられ


 いつしか 当たり前のように答えを外側に求めて生きるようになってしまったのかもしれません。

 

 

未来を知りたい、自分を知りたい、世界を知りたい、この世の仕組みを知りたい

 


 近道は?

 


先回りするには?

 


 損をしないためは?

 

 


 「自身もこの世も、事の集積体

一瞬一瞬刻々と刻まれ 他種多用あらゆる形になりながら普段に展開し続ける。」

 


 本居宣長は、この世界をこんな風に表現しています。

 


事、心、もの、人に接する刹那に次々と際限なく生み出される。

 


  真心は源泉とつながる道を示してくれる光のようなもの。

 

 

答えは、外側ではなく、内側に宿っている。

 


 多くの賢人たちが、そう伝えています。

 


 自らの虚構を取り払い、心を浄化していくことで真心を取り戻し

そして、自分を取り戻していく。

 

 未来、世界、この世、そして「自分」を感じることができるでしょう。


 それは、何も聖人のように生きることではなく

勧善懲悪的な正しさを求め続けるような生き方でもなく


心で生きるという、とてもシンプルで優しい生き方。

 

 複雑性が増していくように見える世界。


真心から目を逸らすようなもので溢れ、真実より虚構、


 漂うことより、うまく泳ぐことが求められてきた世界。

 

今、この世界に1番必要なのは、「真心」なのかもしれません。


 秋分を越え、一つの峠を越え、時間は塗り替えられていきます。


磨き上げた「個人」で社会に飛び込んでいく。

 


 その際、「真心」を忘れずに・・・と。

 


星たちは、飽くなく欲望と、終わりのない渇望に終止符を打とうと全ての魂に「真心」を求めていくでしょう。